大前提として:「アクティブな授業」と「アクティブラーニング」は同義であるか

投稿者: | 2018年2月26日

※本稿は、2018年3月25日開催「日本アクティブ・ラーニング学会 第二回全国大会」における山本修裕の発表原稿草稿、また発表の内容より、内容を一部抜粋、追記修正して収録するものです。


アクティブラーニング型の授業、という言葉が汎用されてから数年、各所の有志による取り組みにより、多くの実践事例が業界紙、インターネット、学会等でも紹介されている。其の多くは、調べ学習、グループでの対話、教室の外に出ることなど「これまでの授業方式よりも活動的である」ことが特徴である。

しかし、Learningという言葉の主体はあくまでもlearner=学習者である。傍目に活動的な授業をすることと、学習者がその教室において能動的に授業参画している事は同義ではない。授業で展開するアクティビティが「傍目に活動的であるかどうか」は、学習者の環境要件でしかなく、グループ対話、調べ学習、プレゼンテーション、郊外へのお出かけ、などは全て「アクティビティ」を授業に導入したに過ぎない。
真の問題は「学習者の姿勢が、学習行為に対してアクティブであるか」である。人と話したり、人前に立つことが得意な学習者にとっては、その授業は楽しい時間になるだろう。しかし、それらが苦手、不向きな学習者には、学びどころではない、苦痛な空間であるかもしれない。そういった学習者に対して、歯を食いしばって耐えながら、発表できるようになりなさい、と鍛えることが、アクティブラーニングの実践なのだろうか。

ダイバーシティ社会に向け、広い意味での「多様性の担保」が叫ばれている。この社会を目指すことが現代日本にも求められているとすれば、他者の存在や異文化の多様性を受け入れ、自分自身もまた多様な分子の一つであることを自覚した人材を育てることが、義務教育段階での大きな役割になるはずだ。しかし、少なくとも現状では、「学習者の適正に合わせた」アクティブラーニングの在り方の理論や実践研究は、未だ少数と言わざるを得ない。

本質的に「能動的な学習者=アクティブラーナー」を育成するためには、学習者の適正に目を向け、学習者本人が「自由意志」によって学びに取り組める環境を提供せねばならない。
あくまでも内的な「学び」という行為に対し、それを外部から刺激し、誘発し、支援する「教育者」の側に求められるものは何であるか。
多様な学習者にフィットした、能動的に参加、参画できる学習空間を、既存の教育現場とシステムのなかで、どのような環境デザインで実現していくのか。
これらを実践をもって追求していくことが、本研究の目的である。